自分の生涯を「スキー」に関わりを持ちたい、と考え始めたのは小学校3,4年生の頃と記憶しています。北海道の中にあって比較的雪の少ない登別で育ったのですが、初冬、一夜にして銀世界に変わる景色が堪らなく好きでした

 

 初めのニセコは昭和45年、中学校3年生の冬でした。23日の日程で当時ニセコ高原ホテルに併設されていたロッヂに宿泊し、雪質、そしてその多さに驚きました。廃線となった国鉄胆振線、伊達紋別駅から終点倶知安駅まで、友人と二人、初めてのニセコに興奮しながら鈍行列車の旅なのでした。

 

 昭和48年、国際観光専門学校 観光経営学科入学と同時に ㈱ 熱海ニューフジヤホテルへ委託奨学生として入社し、日中は学校、朝と夜をホテルで仕事と言う二足の草鞋生活を楽しみ、昭和5212月に現在のグランヒラフ(当時は、(ニセコ国際ひらふスキー場と呼ばれていました)にあった、サンモリッツリフト株式会社に縁をいただき、ホテル営業、宣伝広告、スキー場運営の仕事に携る事ができました。

 (サンモリッツリフト㈱は、ホテルニセコアルペン、ニセコアルペンリフトを運営し、平成1610月に特別清算を経て会社解散)

 

 9年間、夏はニセコ東急ゴルフ場、冬はグランヒラフ総合案内所 ウエルカムセンター担当し20135月スノーシーズン終了後、㈱東急リゾートサービスを退職し、念願のロッヂ開業に向け準備を進め20146月開業。

 

 ロッヂの名称はスイスなどで放牧される牛、羊などの家畜の首に下げられ、その音色で牧童に自らの所在を知らせています。

 

 みな様のニセコ滞在がより快適となります様、情報と言う音色をロッヂから発信し続けたい思い込め命名しました。

S48年 3月高校3年 春休み友人3人と志賀高原熊の湯志賀パレスホテルにてアルバイト(前年の12月、冬休みに続き二度目) 

S50年2月 東京帝国ホテルにて座談会にて。

S51年 勤務していた熱海ニューフジヤホテルパンフレットにて、スイスホテル研修紹介。

S51年 熱海名物 鼻血ブーの店 焼き鳥 とん太にて

早稲田大学を首席ではないが卒業した名物オヤジと。とにかく良く通った思い出深い青春のひとコマです。

アルペンシーズン1年目。秋田からの指導員2名(右のブルーウェア)と職場同僚、そのお姉さん、常連客で。温泉沢コース入口にて。

S56年7月 イワオヌプリ雪渓を滑る。写真は現在室蘭市在住のセミプロカメラマン撮影。1分の滑りのために、30分以上かけて登ったが実に気持ちが良かった。

S57年 結婚前のカミさんと。カミさんの関心を買うのに一生懸命な私でして、親父から8mmカメラ借用し、滑りを撮影。その甲斐あってこの年の8月に結婚式挙げる。